グラウンド・ゼロ

 思うところあって、秋葉原から赤坂まで都心の夜道を徘徊した。


 僕にとって都心は心のふるさとだ。
 18で家を出てから2年間、赤坂の新聞店で働きながら、専門学校で小説の書き方を勉強していた。実家である埼玉の片田舎を離れた初めての一人暮らしで、毎日仕事をするという事も初めてだったし、しかも住んだ場所が首相官邸から徒歩3分という超都心で、何もかもが新鮮過ぎて、そして、自分が何も持たない空っぽの田舎者に思えた。
 実際僕は何も持たない空っぽの田舎者だった。自信のありげな大企業のサラリーマンやOLの大群が周囲を行き交う中で、新聞店のジャンパーを着て不器用にスーパーカブに乗る自分はいかにも孤独で惨めだった。どこまでも人工物に囲まれた街にもなかなか馴染めなかった。最初のうちは本当にホームシックにかかって、ビルの緑地に生えた木々が風にそよいでいるだけで、雑木林に囲まれた実家のことが思い出され、涙ぐんだりした。
 だけど、新聞店の人たちが親切にしてくれたり、高校の友人が遊びに来てくれたり、同じ境遇の同僚と知り合ったりしているうちに、自分が段々と街に溶け込んでいった。それに、暇なときには周囲をよく歩いた。少し歩けば国会議事堂で、お堀に沿って歩けば日比谷・銀座・新橋に行けた。反対方向に歩けば、首都高を潜って六本木から渋谷まで行けた。学校が始まる直前には、赤坂から四谷・青山・新宿を通って、明大前まで歩いてみたりもした。都心とはいえ、大通りを離れて道を分け入っていくと、静かで懐かしい感じのする小径がたくさん残っていた。そういった小径の中に自分をうまくはめ込めるように、同時に、自分の中へそんな小径の広がりを刻み込むように、僕は歩いた。
 配達の仕事は、個人的にはそれほど苦にならなかった。配達場所と部数を覚えてしまえば、独りで駆けずり回って配る生活は気楽だった。夜9時半には寝て朝の3時半に起きる、というリズムが、いやおうなく僕の身体に刻まれる。無言のビルの狭間でたった独り新聞を背にして走っていると、不思議と気持ちが落ち着いた。入り組んだ配達順路が、まるで自分だけの街のように思えてきた。どこにポストがあり、そこに何の新聞を入れるべきか。警備員さんにどう声を掛けてドアを開けてもらうのか。オートロックを解除する秘密の暗証番号は何か。僕は確かに、誰よりも詳しく知っていた。
 自我の自家中毒に侵されがちだった10代の頃、自分を離れられる時間は、そういった散歩と配達の時だった。2年間という短い学生生活を終えてからも、たびたび赤坂に立ち寄るのは、その時のリズム、その時の落ち着きを取り戻したいと思うからだ。


***


 秋葉原から外堀通りをずっと辿って歩き、四谷方面から赤坂に入った。時刻はもう夜で、閉館の決まっているグランドプリンスホテル赤坂が、巨大な壁面に明かりをまばらに灯していた。それを左手に見上げながら首都高の下に入っていく。歩道の脇に広がる堀の暗い水面が、風を受けてひたひたと揺れている。歩いている人は僕のほかにはいない。冬の遅い朝に似ていた。僕が新聞を配っていたのは、外堀通りの向こう側に当たる一角だ。レンガ模様の前田外科病院や、黒褐色のサントリー本社ビルがたたずむ、今の時分には人通りの少ない元赤坂の片隅だった。多くの建物はそのまま残っていて、今でもまだ新聞が配れそうに思えた。
 ここで働き始めてから数えると、もう10年が経とうとしていた。今、ここで新聞を配っているのは誰なのだろう。僕と同じような奨学生なのだろうか。僕に仕事を教えてくれた班長のNさんは、まだ元気でいるのだろうか。10年前と比べると、日本も随分変わってしまった。それも悪い方に変わってしまった。この街はいつまでこのままだろう。新聞や、それを配る人たちは、いつまで残っていてくれるだろう。
 振り返れば、10年前の僕は将来なんてろくに考えていなかった。なんとなく、ゲームのシナリオやライトノベルを書きたいと思っていた。学校を出た後のことは、そのくらいの淡い希望しかなくて、具体的にどう生計を立ててどんな生活をするのかまるで考えていなかった。とにかく新聞を配り、本を読んで文章を書いていれば良いと思っていた。女の子がそばにいない事だけが寂しくて、情けなかった。世界は大体においてまっとうで、楽しくやっていて、僕だけが情けなくダメなのだと思っていた。
 だけど、ある日、新聞の到着が異様に遅れた日があった。それは2001年の9月12日、時刻変更線の向こう側にあるアメリカでは、9月11日のことだ。その時になって初めて、世界がどこに向かおうとしているのか、その中で僕はどうすれば良いのか、心配になったのだ。
 その日の朝、僕はいつもの時間に作業所へ出た。なぜかラジオが大きな音で鳴らされていた。NHKの男性アナウンサーが、淡々とした声で何かを読み上げていた。普段なら殺伐とした空気の中で黙々と働いているはずの同僚達が、バイクのシートに座ったり腕を組んだりして、いかにも手持ち無沙汰にしていた。
 店長が僕を見て一言、新聞はしばらく来ない、と告げた。アメリカで飛行機のテロがあって、戦闘機がどんどん飛んでる、と。
「あっちはもう戦争だよ」
 店長が言い放ったその言葉を、僕は具体的に受け取ることができなかった。戦争といえば、新聞が届いた時の忙しさのような、そういう比喩的なものでしか捉えられなかった。僕は店長に促されるまま、寮に戻って、もう一眠りした。僕はもっと想像力を働かせても良かったと思う。この場所でずっと新聞屋を続けている70を超えた店長にとって、「戦争」という言葉の重みがどれほどのものか、ということについて。とにかく、新聞は本当にしばらく来なかったので、僕には為す術もなかった。見慣れた赤坂の街はいつも通りの静けさで、僕と同じように為す術もなく眠り込んでいるようだった。
 新聞がようやく刷り上ってきたのは、確か6時半頃のことだったと思う。普段なら、3時半にはもう届いているはずなのだ。
 それは、ほとんど文章というものがない、異様な代物だった。燃え上がるビルや、衝突寸前の飛行機、街を埋める黒煙の写真ばかりで、普段の無愛想な経済新の面影はなく、どの面も極彩色の炎に染まっていた。そんな新聞の束が、刷り立て特有の生温かさをもって、すっかり明けた空の下に届けられた。きれいな初秋の朝で、早朝の空は既に高みを増していたけれど、朝日はまだ眩しくぎらついていた。
 新聞を早く届けなきゃ、と思った。この新聞は少しでも早く。世界はこれで終わるのかもしれない、とも思った。店長が言ったように、戦争になるだろう。どこもかしこも戦争になるだろう。この極彩色、この炎は、誰かの表現なのだ。世界はたぶん、こんな表現に、正義の表現に包まれるだろう。そんな戦慄を感じながら、僕は新聞を配った。
 この10年を振り返ると、確かに戦争は何回か行われた。だけど、僕が心配したような破滅的な時代にはならなかった。正義の表現は確かに世に溢れている。でもそれは、主にインターネットを介したごく穏当なものに留まってくれた。だけど、果たして未来がどうなるのか、それはまだ分からない。


***


 TBS社屋のふもとにある小さな公園の前で道を左に曲がり、かつての小泉首相がよく訪れていたという中華料理店を通り過ぎると、僕の住んでいた寮があった。いや、今はもうない。築年数も定かではない木造の寮は数年前に取り壊され、なんとも中途半端な感じのする狭い駐車場になっていた。隣のラーメン屋と、その前にある缶ジュースの自動販売機はそのままだった。僕は温かいコーヒーを買って、何も無くなった細長い空間を見上げる。夜によくここへ降りてきて、同じように缶コーヒーを買っていたっけ。部屋の窓から見えた、すぐ隣のビルのオフィスは以前のままだろうか。そこには「寝ない! 逃げない! 嘘つかない!」という貼紙があって、おそろしく壮絶な職場なのだろうと思われた。
 小さな店は変わっているところが多かった。バルチックカレーは家系ラーメン屋になっていた。マクドナルドは消えて久しい。ドトールはそのままだ。古いビルは再開発されて、ありきたりのテナントを収めた地下のモールが出来ていた。歴史のあるコマツビルはそのままだ。その裏手にある新聞店も、まだちゃんと残っていた。
 学校を卒業してから、販売店の人たちとは疎遠になってしまった。ここは通過点だと思っていたのだ――でも実際には、何度も戻ってくる場所になった。僕は販売店の前をただ通り過ぎる。新聞の看板は変わらない。雑然としたビルの感じも相変わらずで、狭いベランダには洗濯物も干してある。ここに住んで、僕と同じような生活をしている人がいるんだ。そう思うとなぜか涙ぐんでしまって、僕は暗い路地を足早に通り過ぎた。
 すぐ近くにある、六本木通り沿いの「なか卯」で夕食のうどんを食べた。並んだ「なか卯」も「らんぷ亭」もそのままで、相変わらず土日はガラガラに空いていた。実家を出て初めて食べた食事が、この「なか卯」だった事を思い出したりした。